霧に包まれた杉並木の先に、いにしえの神話が静かに息づいている。長野県の北西、標高1,200メートルの山懐に抱かれた戸隠神社は、天照大御神と天手力男命の神話が交錯する聖地だ。
春の訪れとともに芽吹く若葉、夏の清涼な風、秋の紅葉の絨毯、そして冬の厳しい雪化粧。四季折々の美しさに彩られた参道は、現世から神域への架け橋となる。樹齢数百年の杉が立ち並ぶ石畳の参道を歩めば、時間の流れが緩やかになり、神秘の世界へ誘われる。
伝説によれば、天照大御神が天岩戸に隠れた時、天手力男命が戸を引き剥がして投げ飛ばした。その扉が舞い降りた場所が「戸隠」の名の由来とされる。神話と現実が溶け合う境界に立つ感覚は、訪れる者の心に静かな畏怖を呼び起こす。
奥社、中社、宝光社、火之御子社、九頭龍社の五社から成る戸隠神社。特に奥社への道のりは、二キロメートルにも及ぶ杉並木の参道を抜け、急な石段を登らねばならない。その険しさは、神域に近づくための試練であり、心身の浄化の旅でもある。
冬は深い雪に閉ざされ、奥社への参拝は叶わない。神々も眠りにつく季節、人知を超えた静寂が山々を包み込む。その厳しさゆえに、春の訪れとともに開かれる神域は、より一層神々しく映る。
江戸時代には戸隠流忍法の修行場として栄え、今でもその痕跡が「忍者の里」として残る。霧深い森と急峻な地形は、忍者たちの隠れ家としても理想的だった。神聖と隠密、表と裏、このような二面性が戸隠の魅力をさらに深めている。
参拝客を迎える戸隠そばも名物だ。厳しい寒さと清らかな水が育んだ粉から作られる戸隠そばは、シンプルながらも深い味わいを持つ。神々への供物として始まったとも言われるそばは、今や地元の誇りとなっている。
戸隠を訪れる者は、単なる観光ではなく、日本の神話と歴史の深層へ潜る旅に出る。杉並木の木漏れ日、山々のこだま、鳥居の向こうに広がる世界は、現代の喧騒から解き放たれた魂の安息所となる。
時代が変わっても変わらぬ佇まいを見せる戸隠神社。人々の祈りと自然の調和が織りなす物語は、これからも新たな章を重ねていくだろう。そして訪れる者の心に、名状しがたい感動と静かな決意を残し続けるに違いない。
神々の足跡を辿る旅は、自らの内なる神聖さを見つける旅でもある。戸隠の風に身を委ねれば、目には見えない大いなる存在との対話が始まるのかもしれない。
文・一順二(にのまえ じゅんじ)

