日本シン名所百選 日本シン名所百選

你好

西原商店街の喧騒から少し離れた二階へと続く階段を上ると、そこには時が止まったかのような空間が広がる。1982年から38年以上、この地で人々の胃袋と心を満たし続けてきた餃子の名店「你好(ニイハオ)」。扉を開けた瞬間に漂う小麦粉と豚肉の香りは、まるで古き良き中華街の記憶を呼び覚ますかのようだ。

店名の「你好」は中国語で「こんにちは」を意味する。日中国交正常化の流れの中で、明るい未来を感じさせる言葉として野坂由郎氏が選んだという。青森から単身上京し、東京大飯店やマダム・チャンといった名店で修行を積んだ彼が、33歳でこの地に灯した小さな火は、今や東京を代表する餃子の名店として燦然と輝いている。ミシュランガイドに連続掲載され、「餃子百名店」にも選出されるその実力は、確かな味と情熱の証だ。

店内に一歩足を踏み入れると、手際よく餃子を包む職人の姿がカウンター越しに見える。粉を打ち、延ばし、具を包み込む—その所作には無駄がなく、長年の経験から生まれる美しさがある。窓の外には夕暮れの幡ヶ谷の景色が広がり、テーブル席や奥の座敷からは、日常から切り取られた特別な時間が流れているように感じられる。

「你好」の真髄は、なんといってもその餃子にある。焼き餃子、水餃子、揚げ餃子—どれも職人の手によって生み出される芸術品だ。一般的な餃子との決定的な違いは、その具材にある。挽肉ではなく、豚肩ロースの塊を粗めにカットした肉が使われることで、一口噛むごとに肉の旨味が口いっぱいに広がる贅沢な体験を味わえる。

焼き餃子と青島ビール

焼き餃子は、鉄板で焼き上げられた皮の香ばしさと、もちもちとした食感のコントラストが絶妙だ。水餃子は北京風と称される、つるんとした口当たりの厚めの自家製皮が特徴で、噛むほどに広がる肉汁が心を満たす。揚げ餃子は、カリッとした外皮の中に閉じ込められた具材の旨味が、ビールとの相性を高める。

これらの餃子を引き立てるのが、中国南方の調味料である沙茶醤(サーチャジャン)をベースに、醤油と酢をブレンドした自家製のタレだ。野坂氏のこだわりが詰まったこのタレは、テーブルに酢や醤油が用意されていないことからも、その自信が伺える。

「你好」の魅力は餃子だけではない。冷菜のネギチャーシューは、しっとりとした豚肉とネギの相性が絶妙で、セロリの酢漬けはさっぱりとした酸味が食欲を刺激する。温菜の自家製腸詰めや麻婆豆腐は、本場の味を忠実に再現し、カニチャーハンや炒米粉は、餃子との相性を考え抜かれた一品だ。

店内はいつも活気に満ちている。会社帰りのサラリーマン、デートを楽しむカップル、家族連れ—様々な人々が、この小さな空間で幸せのひと時を過ごしている。カウンター席では、一人で黙々と餃子を頬張る常連客の姿も。彼らにとって「你好」は、単なる飲食店ではなく、人生の一部となっている場所なのだろう。

夜が更けるにつれ、店内の熱気はさらに高まる。青島ビールや紹興酒の杯が重ねられ、会話は弾み、笑顔が増えていく。そこには食を通じて人々をつなぐ、「你好」だけの特別な空気が漂っている。

幡ヶ谷駅から徒歩わずか3分、西原商店街の中に佇むこの名店は、今日も変わらぬ味を守り続けている。予約は電話でのみ受け付け、支払いは現金のみ—そんな昔ながらのスタイルも、この店の味わいの一つだ。

人々が「你好」に求めるのは、単においしい餃子ではない。職人の技と情熱が生み出す本物の味、そして活気ある店内で過ごす特別な時間—都会の喧騒を忘れさせる、小さな幸せの瞬間なのだ。

夜空に浮かぶ「你好」の灯りは、今夜も幡ヶ谷の街を優しく照らし続ける。その光に導かれ、ぜひ一度、餃子の名店が紡ぐ物語の主人公になってみてはいかがだろうか。

文・一順二(にのまえ じゅんじ)

一順二(にのまえじゅんじ)
猫のロキ
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