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共栄堂

古書の香りが漂う神保町の街。学生たちが行き交う靖国通りに面したビルの地下へと続く階段を降りると、大正時代から変わらぬ味を守り続ける一軒の店がある。「スマトラカレー共栄堂」—その扉を開けた瞬間、複雑に絡み合うスパイスの香りが迎えてくれる。

スマトラカレー

大正13年(1924年)、関東大震災からの復興期に生まれたこの店は、約一世紀の時を経た今も、多くの人々を魅了し続けている。カレー激戦区として知られる神保町の中でも、共栄堂のカレーは唯一無二の存在感を放っている。

店の看板メニュー「スマトラカレー」の起源は、明治時代末期にまで遡る。東南アジアを広く旅した伊藤友治郎という日本人が、スマトラ島で出会ったカレーの作り方を持ち帰り、日本人の口に合うようにアレンジしたのが始まりだという。当時「カフェー南國」という店を経営していた伊藤氏の食への造詣の深さが、この独特なカレーを生み出したのだ。

共栄堂のスマトラカレーを一口含むと、その独特の風味に驚かされる。濃い褐色のソースは、小麦粉を一切使わず、20種類以上のスパイスを約1時間かけてじっくりと炒めて作られている。野菜は形がなくなるまで煮込まれ、肉の旨味が溶け出したサラサラとした口当たり。じっくりと炒めたスパイスからくる焦がしのような風味と、ほのかな苦味が特徴だ。

注文すると、最初にコーンベースの野菜ポタージュスープが運ばれてくる。この心遣いは、これから口にする辛味あるカレーへの準備とも言える。そして待つこと数分、厳選された国産コシヒカリの上に注がれた濃褐色のカレーが目の前に登場する。

メニューは多彩だ。ポーク、ビーフ、チキン、エビ、タンとそれぞれのカレーは、具材の旨味に合わせてルーの味わいが微妙に調整されている。特にエビカレーは、白ワインとバターでフランベされ、エビの香りが際立つ仕上がりになっている。10月から4月の季節限定で提供される焼きりんごは、熱々のカレーの後の至福のデザートだ。丸々一個のりんごを焼き上げ、生クリームをかけたシンプルながらも絶品の一品である。

店内は、長い歴史を感じさせるレトロな雰囲気。昼時には行列ができるほどの人気だが、料理の提供は素早く、多くの常連客が「神保町の宝」と称えるこの店を支えている。

老舗の証として、ミシュランガイドのビブグルマンを連続受賞し、「カレー百名店」にも名を連ねる共栄堂。その評価の高さは、長年変わらぬ味への信頼の証だろう。

しかし、この独特な味わいは万人受けするものではない。「辛い汁」のような印象を持つ人もいれば、ほのかな苦味が苦手という声もある。それでも、多くのカレー通が足繁く通い、代を超えてファンになる理由は、この他にはない確固たる個性にある。

共栄堂が洋食屋からカレー専門店へと変遷したのは昭和50年頃。その決断が今日まで店を存続させる礎となった。今では特別な日に訪れる人、仕事帰りに立ち寄る人、テイクアウトで自宅で楽しむ人など、様々な形で共栄堂のカレーは人々の生活に寄り添っている。

神保町の街を歩けば、古書店の間にカレー店が点在する不思議な光景に出会う。その中でも、地下への階段を降りた先にある「スマトラカレー共栄堂」は、時代を超えて受け継がれる味の記憶として、これからも多くの人々の胃袋と心を満たし続けるだろう。

文・一順二(にのまえ じゅんじ)

一順二(にのまえじゅんじ)
猫のロキ
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