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八ヶ岳えさき

えさき外観

陽光きらめく夏の日、八ヶ岳の山々が青々と茂る山梨県北杜市。標高1200メートルに位置する大泉町の森の中に、一軒の特別な日本料理店が息づいている。「八ヶ岳えさき」—それは、美食を求める者たちが涼を求めて訪れる、隠れ家のような聖地だ。

木々に囲まれた静謐な空間に一歩足を踏み入れると、そこはもう都会の喧騒とは別世界。大きな窓からは八ヶ岳の雄大な自然が広がり、冬はハラハラと舞い落ちる粉雪が、春は芽吹く新緑が、夏は深い緑が、秋は錦絵のような紅葉が、四季折々の表情で訪れる者を出迎える。

この隠された美食の殿堂を守るのは、江﨑新太郎という一人の料理人。1962年、東京に生を受けた彼は、赤坂の名門料亭「山崎」をはじめ、東京や京都の一流店で修行を積み、1994年に東京・青山に自らの店「青山えさき」を開いた。その腕は世界に認められ、7年連続でミシュランの三ツ星を獲得—料理界の至高の栄誉を手にした男である。

しかし、2018年、江﨑は多くの人を驚かせる決断をする。東京での名声と栄光を捨て、八ヶ岳の山麓に移り住み、新たな「えさき」を開くという挑戦だった。なぜ、頂点を極めた料理人が都会を離れ、人里離れた山の中に身を置いたのか。それは、清らかな湧き水と豊かな自然、そして素材本来の姿に向き合うための、彼なりの答えだったのかもしれない。

お造り

「八ヶ岳えさき」の最も特異な点は、その「一つのテーブル」という哲学だ。昼も夜も、それぞれ一組限定という贅沢さ。訪れる者は、その時間、その空間を独占することができる。それは単なる食事ではなく、江﨑という芸術家による、一期一会の美食体験への招待状だ。

朝早く豊洲市場から直送される新鮮な魚介類、八ヶ岳の麓で採れる旬の野菜、全国各地から厳選された食材—すべてが江﨑の手によって命を吹き込まれる。彼の作り出す料理は、「伝統」という枠組みを尊重しながらも、創造性に満ちている。伊勢海老の米ソース、のどぐろご飯、カリフラワーのピューレと太白胡麻油を使った彼のスペシャリテ—一つ一つの皿に込められた物語は、五感を通して食す者の心に深く刻まれていく。

特筆すべきは、江﨑がすべてを一人で行うという徹底ぶりだ。食材の仕入れから調理、配膳、給仕まで—すべてが彼の手から生まれる。それは匠の技であり、職人の誇りであり、料理人としての矜持だ。彼の姿からは、妥協を許さない完璧主義と、食材への敬意、そして訪れる客人への心遣いが滲み出ている。

スペシャリテである鮎のすりながし

「八ヶ岳えさき」への道のりは容易ではない。JR小淵沢駅からタクシーで約20分、または甲斐大泉駅からタクシーで約10分—どちらも事前の計画が必要だ。しかし、その不便さえもまた、特別な体験への序章として意味を持つ。日常から離れ、特別な場所へと向かう旅路は、心の準備を整える時間でもある。

一度の訪問に許されるのは最大6名まで。中学生未満の子供は入店できず、短パンやサンダルでの来店も遠慮するよう求められる。これらのルールからも、ここが単なる「食事をする場所」ではなく、特別な時間と空間を共有する「美食の儀式」の場であることが伝わってくる。

食事の価格はもちろん決して安くはないが、訪れた人々のレビューには「唯一無二の世界観」「特別な環境で特別な味を」「最高の食った感」という言葉が並ぶ。それは単に味覚だけでなく、視覚、聴覚、嗅覚、触覚—そして第六感まで満たされる、総合芸術としての食事体験なのだ。

食べログで高評価を獲得し、「日本料理 EAST 百名店 2023」にも選出された「八ヶ岳えさき」。しかし、数字や肩書きだけでは語り尽くせない魅力がここにはある。それは、一人の料理人が信じる「食」の本質と、彼が選んだ「場所」の力が融合した、唯一無二の存在感だ。

八ヶ岳の山々に抱かれた小さな日本料理店で、江﨑新太郎は今日も誰かのために包丁を握る。その一皿一皿に込められた想いは、訪れる者の心に深く、静かに、しかし確実に響いていく。忙しい日常を離れ、美しい自然の中で、一期一会の美食に身を委ねる—「八ヶ岳えさき」という隠れ家は、そんな贅沢な時間を求める者たちを、これからも静かに迎え続けるだろう。

文・一順二(にのまえ じゅんじ)

一順二(にのまえじゅんじ)
猫のロキ
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