水の呼吸のように、山の懐から滲み出る命の源。八ヶ岳の雄大な姿を背に、静かに時を刻む大滝湧水の物語を紡ぎましょう。
一滴の雨が長い旅路を経て辿り着く先には、清冽な輝きを放つ水の楽園がある。山梨県北杜市、かつて「甲斐の国」と呼ばれた土地に佇む大滝湧水は、古より人々の暮らしを支え、魂を潤してきた聖なる場所だ。木々の間から射す光が水面で踊り、湧き出る清水の音色が耳に優しく響く。この地に立てば、水と大地と人の織りなす永遠の絆を感じずにはいられない。
八ヶ岳の広大な懐に抱かれたこの湧水は、山に降り注いだ雨が地中深くへと浸透し、幾十年もの時を経て地上へと還ってくる奇跡の結晶だ。一日に約22,000トンもの水が湧き出し、四季を通じて12℃という絶妙な温度を保ち続ける。まるで大地の鼓動を感じるかのように、絶え間なく命の水が湧き上がる様は、見る者の心を静かに揺さぶる。
紀元前88年、伝説の武人・武渟川別命がこの地を訪れたとき、彼はこの湧水を「農業のもと、国民の生命、肇国の基礎」と讃えたという。時代を超えて、この水は人々の生活を支え続けてきた。江戸時代には甲府代官がその価値を認め、保全のために民有地を買い上げたという記録も残る。1985年、環境省の「名水百選」に選ばれたことは、この湧水の持つ尊さへの現代の証だ。
湧水公園を訪れれば、木をくり抜いた水路や樋口から流れ落ちる水の姿に目を奪われる。地元の人々はその様子を「龍が水を吐き出している」と表現する。確かに、樋は龍の口のようであり、周囲の杉は角、水を浴びて生き生きとした草は爪のようにも見える。自然と人の想像力が生み出した神秘的な光景だ。
大滝神社の境内に位置するこの湧水は、神聖な雰囲気に包まれている。石段を上り、湧水やワサビ田を見下ろせば、悠久の時の流れを感じずにはいられない。大国主命と少彦名命を祀るこの神社では、四季折々に地元の人々による祭りが行われ、水と人との深い絆が今なお息づいている。
訪れる人々の多くは、ペットボトルやポリタンクを手に水を汲みに来る。この水は長く保存しても腐りにくいと言われ、ミネラル成分が豊富で「おいしい水」に分類される。水質検査のデータからも、その品質の高さが証明されている。かつては、この清らかな水で育った川魚料理を提供するレストランも営業していたという。
季節ごとに表情を変える大滝湧水の魅力は尽きない。春の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色の中で、湧水は変わらぬ姿で人々を迎え入れる。風のない晴れた日には、池の水面が鏡のように周囲の景色を映し出し、まさに「明鏡止水」の境地を見せる。
小淵沢駅からは徒歩約20分、中央自動車道からも車で約15分というアクセスの良さも魅力だ。周辺には、身曾岐神社や小淵沢絵本美術館、星野リゾートなど、様々な観光スポットもある。
大滝湧水を訪れることは、単なる観光ではない。それは、水と大地と人間の関係性を見つめ直す旅であり、忙しい日常から解放される癒しの時間でもある。古来より受け継がれてきたこの貴重な自然の恵みを、私たちもまた未来へと繋いでいく責任がある。
清らかな水が奏でる自然の調べに耳を傾け、その冷たさに触れ、一口飲めば体の中から浄化されるような感覚に包まれる。大滝湧水は、目に見える美しさだけでなく、魂の奥底まで潤してくれる稀有な場所なのだ。
時代が移り変わっても、この湧水は今日も変わらず清らかな命の水を湛えている。水の記憶は、私たちの歴史よりもはるかに長く、深い。この静謐な水辺で、あなたも水と対話してみてはいかがだろうか。
文・一順二(にのまえ じゅんじ)

