日本シン名所百選 日本シン名所百選

マルフク

薄暗い路地を抜けると、そこには活気が溢れていた。大阪市西成区の片隅に佇む「マルフク」。ビニール越しに見える立ち飲み客の肩と肩が触れ合う姿は、昭和の記憶を今に伝える生きた風景だった。

マルフクの豚足や子袋チョジャン合え

朝靄がまだ街を包む八時、すでに店の前には数人の常連らしき男たちが並んでいる。酒と肉の香りが朝の空気に溶け込み、まだ目覚めぬ街に活力を吹き込んでいた。動物園前駅からわずか一分、この小さな空間は、昼夜を問わず人々の喉と胃袋を満たし続けてきた。

扉を開けると、二つの熱く輝く鉄板から立ち上る湯気が顔を包む。その向こうにはL字型のカウンター、そして忙しなく動くスタッフの姿。客たちの会話は静かに、しかし確かな温もりをもって響いている。「大声禁止」の暗黙のルールが、この場所に不思議な親密さを生み出していた。

「いらっしゃい!」と声をかけられ、恐る恐る入店した私に、隣に立つ年配の男性が「ホルモンとハイレモンやな」と囁く。それは質問ではなく、この店での最良の選択を示す助言だった。壁には手書きのメニュー表、値段の変更は二重線と手書きの数字で修正されている。その素朴さが、変わりゆく時代の中で変わらぬ味の証のように思えた。

注文したホルモンが目の前の鉄板に投げ入れられる。甘辛いタレと生ニンニクの香りが立ち込め、唾液腺が反射的に刺激される。数分後、プラスチックのトレーに盛られたホルモンが差し出された。見た目は決して美しくない。しかし、その不格好さこそが本物の証だった。

一口目。プリップリの食感と甘辛いタレの調和が口の中で踊る。噛めば噛むほど肉の旨味が広がり、思わず目を閉じてしまう。隣の男性が「うまいやろ?」と笑い、私も無言で頷いた。樽ハイレモンの爽やかな酸味が、口の中に残る甘辛さを心地よく洗い流していく。

昭和58年、この地に生まれたマルフクは、当初から労働者たちの"魂の充電所"だった。バブル期の建設ラッシュに汗を流した日雇い労働者たちが、その日の疲れを癒し、明日への活力を得る場所。190円のホルモン、270円の豚足煮込み、220円の樽ハイレモン。千円札一枚で十分に満たされる「せんべろ」の哲学が、この場所には今も息づいている。

店の奥からは豚足煮込みの甘い香りが漂ってくる。とろとろに煮込まれた豚足は、コラーゲンたっぷりで箸で軽く突けば骨から肉が剥がれ落ちる。その柔らかさは、硬く生きるこの街の人々の心を溶かしてきたのかもしれない。

「ハナスジも一丁!」と注文する声に、周囲の客が興味深そうに視線を向ける。希少部位であるハナスジは、マルフクの隠れた名物。初めて見る客は戸惑いつつも、一度口にすればその独特の食感と風味に魅了される。そんな発見と驚きも、この店が長く愛される理由だ。

かつては地元の労働者がほとんどだったというこの店に、今では様々な客層が訪れる。若い女性の一人客、観光客、SNSを見て訪れた若者たち。彼らの姿は、時代とともに変わりゆく西成の新たな側面を映し出していた。

しかし、その変化の中でも変わらないものがある。材料を惜しまず提供する大阪の気前の良さ、客同士が自然と譲り合う人情の機微、そして何より「美味い、早い、安い」という飲食の原点への忠実さ。それらが「マルフク」を単なる飲食店から、西成の生きた文化遺産へと昇華させていた。

店を出る頃には、すでに新たな客たちが店の前に並んでいた。彼らの目には、一杯の酒と一皿のホルモンへの素朴な期待が光っている。西成の喧騒と独特の空気感の中で、マルフクは今日も静かに、しかし力強く営みを続けていく。

その姿は、移ろいゆく時代の中で、変わらぬ価値を守り続けることの尊さを教えてくれる。マルフクは食を提供するだけの場所ではない。それは西成という地域の記憶と誇りが凝縮された、小さくも偉大な文化の灯なのだ。

文・一順二(にのまえ じゅんじ)

一順二(にのまえじゅんじ)
猫のロキ
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