日本シン名所百選 日本シン名所百選

上高地

静かに揺れる梓川の流れに、北アルプスの峰々が映る。標高約1,500メートルに広がる上高地は、まさに天空の楽園。この地を初めて訪れた時、息を呑む美しさに言葉を失ったのは、私だけではないだろう。

大正池の朝霧に立ち枯れた木々が佇み、その姿はまるで水墨画のよう。エメラルドグリーンの水面に映し出される焼岳の雄姿は、刻一刻と表情を変え、見る者の心を奪う。「日本アルプス」という名を世界に広めたイギリス人、ウォルター・ウェストンが魅了されたのも、この比類なき風景だったのだろう。

河童橋に立てば、穂高連峰の壮麗な姿が一望できる。木製の吊り橋は、この地の象徴的な存在。芥川龍之介の『河童』にも描かれ、今では年間120万人以上が訪れる人気スポットとなっている。橋の名前の由来には、かつてこの場所に河童が住みそうな深い淵があったという説や、橋がなかった時代に衣類を頭に乗せて川を渡る人々が河童に似ていたからという説がある。物語を秘めた橋を渡りながら、私たちは知らず知らずのうちに、この地の歴史を体感しているのだ。

梓川沿いを上流へと進めば、神秘的な雰囲気に満ちた明神池に辿り着く。大小二つの池からなるこの場所は、かつては「鏡池」や「神池」とも呼ばれ、古くから神聖な場所として崇められてきた。透明度の高い水面は鏡のように周囲の針葉樹林や雄大な明神岳を映し出し、静寂の中で荘厳な雰囲気を醸し出している。毎年10月8日に行われる「お船祭り」では、平安時代の装束をまとった神官が龍頭鷁首の船に乗り、山の安全を祈願する神事が執り行われる。悠久の時を超えて、人と自然と神々が交わるこの瞬間は、上高地の文化的深みを物語っている。

上高地の歴史を紐解けば、この地が信仰の場から産業の地、そして保護すべき自然へと変遷してきたことがわかる。「上高地」という名は、穂高神社の祭神である穂高見命が穂高岳に降臨し、この地で祀られていることに由来する「神降地」または「神垣内」が転じたもの。江戸時代には木材伐採の場として利用されていたが、大正時代に保護林に指定され、現在では国の特別名勝・特別天然記念物となっている。この保護への転換には、ウォルター・ウェストンの功績も大きい。彼の著書『日本アルプスの登山と探検』は、上高地の美しさを世界に紹介し、保護意識を高めるきっかけとなった。

四季折々の表情を見せる上高地は、どの季節に訪れても魅力的だ。春の新緑、夏の高山植物、秋の黄葉、そして人跡未踏の冬の静寂。特に10月中旬から下旬にかけては、カラマツの鮮やかな黄葉が見頃を迎え、山々を金色に染め上げる。その光景は、まさに息を呑むほどの美しさ。

上高地での過ごし方は人それぞれ。河童橋から大正池へのハイキングコースは、初心者でも気軽に楽しめる。全長約4キロメートル、徒歩で約80分のこのコースでは、梓川の清流やウェストン碑、田代湿原などの見どころが点在する。より冒険心をくすぐられるなら、上高地を拠点に徳沢や横尾を経由して、涸沢や槍ヶ岳への本格的な登山に挑戦するのも良い。

宿泊施設も多様だ。河童橋周辺の五千尺ホテル上高地や上高地帝国ホテルのような高級リゾートから、徳沢ロッヂや横尾山荘といった山小屋まで、好みや予算に合わせて選べる。特に明治時代から続く上高地温泉ホテルでは、自家源泉の温泉に浸かりながら、山々の絶景を堪能できる。

東京からのアクセスも比較的容易だ。新宿からJR特急あずさで松本まで約2時間40分、そこからバスで上高地まで約1時間30分。または新宿から直行の高速バスで約4時間50分。ただし、環境保護のため、上高地ではマイカー規制が実施されており、公共交通機関の利用が必須となる。

上高地を訪れる際には、「採らない」「与えない」「捨てない」「持ち込まない」「踏み込まない」という5つのルールを守ることが大切だ。これらのルールは、この貴重な自然環境を守るために設けられており、訪れる人々一人ひとりの協力が求められる。

上高地に降り立ち、清らかな空気を胸いっぱいに吸い込めば、日常の喧騒は遠い記憶となる。穂高連峰を背に、梓川の清流のせせらぎを聞きながら過ごす時間は、心と体を癒し、新たな活力を与えてくれる。かつてウォルター・ウェストンが感じた感動を、私たちもまた共有できる特別な場所。それが上高地なのだ。

時の流れに身を任せ、自然と一体となるこの体験は、忙しい現代人にとって、何物にも代えがたい贅沢だろう。そして、この美しさを未来へと繋ぐために、私たちができることは何か—。上高地は、そんな問いかけを静かに、しかし確かに投げかけてくる。

文・一順二(にのまえ じゅんじ)

一順二(にのまえじゅんじ)
猫のロキ
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