アスファルトの小径を抜け、浅草の喧騒から一歩踏み入れば、そこには百年の時を超えて受け継がれてきた蕎麦の香りが漂う。「並木薮蕎麦」――その暖簾は、大正二年から変わらぬ場所で、幾多の人々を迎え入れてきた。
夏の日差しが和らぐ夕暮れ時、店の前に立つと、木の温もりを感じる建物が静かに佇んでいる。2011年に建て替えられたとはいえ、その佇まいからは古き良き浅草の面影が消えることはない。白漆喰の壁は時を経るごとに風格を増し、看板には歴史の重みが宿る。
店内に足を踏み入れると、木と畳の香りが優しく迎えてくれる。帳場の向こうで、白い割烹着姿の花番さんたちが絶妙な距離感で客を迎える。彼女たちの手際の良さは、この店で積み重ねられてきた時間そのものだ。
席に案内され、メニューを開けば、シンプルながらも奥深い蕎麦の世界が広がる。まずは「もりそば」を注文してみよう。運ばれてくるのは、淡い緑色を帯びた細打ちの麺。これこそが「藪蕎麦」の真髄だ。蕎麦の実を甘皮ごと挽いた粉から作られるこの麺は、蕎麦粉10に対してつなぎの小麦粉が1という「外一」の配合。十割蕎麦のような歯ごたえと、のど越しの良さを絶妙に兼ね備えている。
そして忘れてはならないのが、並木薮蕎麦を特徴づける辛口のつゆだ。濃いめの醤油ベースに、冷たい蕎麦には鰹節、温かい蕎麦には鯖節の出汁を加えた伝統の味。このつゆを蕎麦に少しだけつけて食べるのが、通の作法とされている。
冬の訪れを告げるように、店の暖簾が風に揺れる季節になれば、多くの人が「鴨南ばん」を求めてここを訪れる。厚切りの鴨肉と鴨のつみれが入った温かい蕎麦は、冷えた体を芯から温め、季節の移ろいを感じさせてくれる。
蕎麦だけではない。「蕎麦味噌」は、江戸甘味噌に蕎麦つゆを加え、煎った蕎麦の実を練り込んだ逸品。これを熱燗の樽酒「菊正宗」と共に味わえば、東京の粋を存分に堪能したことになるだろう。
食事の終わりに供される蕎麦湯もまた格別だ。風情ある器に注がれた蕎麦の茹で汁を、残ったつゆに注いで飲めば、辛口のつゆがまろやかになり、蕎麦の風味が口いっぱいに広がる。
並木薮蕎麦は、単なる食事処ではない。それは東京の蕎麦文化を語る上で欠かせない存在、「藪御三家」の一つとして受け継がれてきた伝統の証でもある。かつては神田、並木、池の端の三店がその名を連ねたが、今では神田と並木のみがその伝統を守り続けている。
並木薮蕎麦が位置する浅草は、古き良き東京の風情を今に伝える街。雷門から浅草寺へと続く賑わいのなかに、静かに佇むこの店は、まさに日本の味と心を映し出す鏡のようだ。
食べログの「そば百名店」に選ばれ続けるその実力は、創業から百年を超えた今なお、多くの人々を魅了し続けている。漫画「美味しんぼ」にも登場するなど、その名は文化としても広く知られるところとなった。
浅草を訪れたなら、賑やかな観光地の喧騒から少し離れ、この静かな蕎麦の聖地へと足を運んでみてはいかがだろうか。そこには江戸の粋が今も息づき、時代を超えて受け継がれてきた味わいが待っている。
蕎麦を堪能した後は、浅草の街を散策するのも良い。仲見世通りを抜け、時には人力車に乗って街並みを楽しみ、隅田川沿いからは東京スカイツリーを望む。そして夕暮れ時、再び並木薮蕎麦の前を通りかかれば、あの蕎麦の香りが懐かしく感じられることだろう。
江戸の昔から伝わる蕎麦の味わい、粋な暖簾の向こうに広がる時間の重なり。それは単なる食事ではなく、日本の心そのものを味わう経験なのだ。
文・一順二(にのまえ じゅんじ)

