鋸南町の片隅に奇妙な銀行がある。千葉県安房郡の保田駅前、旧銀行の建物を改装した「パクチー銀行」だ。扉を開けば、かつての金融機関の厳かな空気は薄れ、フレッシュなパクチーの香りが訪れる者を迎える。銀行という名を冠しながら、そこで扱われるのは紙幣でも硬貨でもない。この銀行の通貨は、パクチーの種子なのだ。
2022年に実店舗をオープンしたパクチー銀行の背後には、佐谷恭という一人の男がいる。彼は2007年からパクチーの種を配布する「シードバンク」としての活動を展開してきた。日本初のパクチー料理専門店「パクチーハウス東京」の創業者でもある佐谷は、国際的な旅の経験から得た知見を、この小さな町に持ち込んだ。
構想の原点には、バングラデシュの経済学者ムハマド・ユヌス氏とグラミン銀行への敬意がある。しかし、ここでの「融資」は極めて特異だ。無利子、無返済義務。受け取った者には、ただ種をまき、育て、その恵みを享受する責任だけが課される。当初、単なる無償配布では人々の行動を促す力が弱かった。だが「融資」という形を取ることで、受け取った人の態度に変化が生まれた。栽培の報告や、収穫したパクチーを使った料理の写真が送られてくるようになったという。
この銀行が提供するのは種だけではない。旧銀行の大きな金庫をそのまま残した店内では、パクチーとイノシシ肉を組み合わせた「猪パク」といった野趣あふれる料理が提供される。看板メニューには、たっぷりのパクチーの上に炒めたイノシシ肉を乗せ、パクチーソースとパクチーシードで風味づけした一皿が並ぶ。スペシャルティコーヒーやクラフトビールも揃い、駅前という立地もあって、電車を待つ人々や観光客、地元民の交流の場として機能している。
さらに独創的なのが「パクチーオーナー」制度だ。店舗前に設置されたプランターで栽培されるパクチーのオーナーになれる仕組みで、初期費用と月額890円を支払えば、年に数回パクチーを収穫できる権利を得られる。種はパクチー銀行から提供され、収穫した種を他のオーナーやパクチー愛好家と共有することも可能だ。月に一度はパクチーの生育状況が報告され、希望に応じて自宅への発送も行われる。
この取り組みは、「インスタレーションアート」あるいは「パブリックアート」としての側面も持つ。銀行という名称を冠することで人々の関心を引き、鋸南町を訪れる人々に強い印象を与える狙いがある。佐谷の根底には、お金以外の価値を見出す現代社会において、地域には人々の楽しみのための資源が豊富に存在することを再認識してもらいたいという使命感がある。従来の金融機関の破綻は経済的な問題に過ぎず、人口減少や高齢化といった課題がある中でも、地域には新たな希望と可能性が生まれていると彼は考えている。
もちろん、この革新的な試みにも課題はある。パクチーは高温に弱く、害虫や病害にもかかりやすい。自然災害の影響を受ければ、地域のパクチー供給は危機に瀕するだろう。SNSでの告知に基づいた不定休という営業形態は、顧客に不確実性をもたらす。創業者である佐谷への依存度の高さも、長期的には不安材料となる。
しかし、この「銀行」は既存の枠組みを超えた発想で、地域に新たな魅力を創り出している。パクチーという一見マイナーな香草を通じて、人と人、人と土地を結びつける試み。それは、形あるものだけが価値を持つのではないという静かな主張であり、既成概念を覆す挑戦である。
鋸南町の片隅に佇むパクチー銀行は、種子という小さな希望を「融資」し続けている。その収益は数字では測れない、人と地域の豊かさという形で、少しずつ、確実に還元されているのだ。
文・一順二(にのまえ じゅんじ)

