山梨県北杜市長坂町の森の奥に佇む「翁」は、訪れる者を別世界へと誘う。林の静寂の中、道沿いに一軒の古民家が姿を現す。それが蕎麦の聖地と呼ぶべき場所だ。看板は控えめで、初めて訪れる者は一瞬たじろぐかもしれない。だが、駐車場には県外ナンバーの車が並び、その評判の高さを物語る。
店に足を踏み入れると、まず靴を脱ぎスリッパに履き替える。日常から解き放たれる儀式のようだ。広い窓から差し込む木漏れ日と、遠くに聞こえる鳥のさえずりが、都会の喧騒を忘れさせる。冬には薪ストーブが温もりを放ち、空間全体が優しく包み込まれる。
「翁」は1986年、「そば界の神様」と称される高橋邦弘によって創業された。高橋は、蕎麦の栽培から粉挽き、打ち立てまでを一貫して行う「達磨」流派の創始者だ。現在は高橋の弟子である大橋誠が二代目として、その精神を受け継いでいる。
メニューは驚くほどシンプルだ。主に「ざるそば」と「田舎そば」の二種類のみ。しかしそこに込められた職人の情熱と技は、複雑なメニューを必要としない。店で提供される蕎麦は、北海道や茨城、山梨など全国から厳選された蕎麦の実を、丁寧に皮を剥き、石臼で挽いたものだ。毎朝打ち立てられる麺は、蕎麦本来の香りと旨味を最大限に引き出している。
「ざるそば」は繊細な細打ち。口に含むと、ほのかな緑色を帯びた麺が喉を通り過ぎるとき、蕎麦特有の芳香が鼻腔を包む。一方「田舎そば」は太めでわずかに粗い食感を持ち、噛みしめるごとに蕎麦本来の豊かな風味が口の中に広がる。どちらもつけ汁につけずとも、そのままで十分に味わい深い。つけ汁はやや辛めだが、それは麺の風味を尊重する証だろう。
より充実した体験を求めるなら「八ヶ岳セット」がある。ざるそばに焼きみそ、甘味が添えられ、一度に様々な味わいを楽しめる。また、季節によっては八ヶ岳産の蕎麦粉のみを使用した十割そばも提供され、その香りの高さは格別だという。
店内には24席。テーブル席16席と小上がりの畳席8席が用意されている。席数は少なく、予約も受け付けていないため、特に週末は混雑することもある。営業時間は通常、午前11時から午後3時だが、冬季は短縮される。また月曜定休、火曜不定休であることも覚えておくべきだろう。そして何より、蕎麦がなくなれば営業終了となる。早めの来店が望ましい。
「翁」の強みは、単に美味しいだけではない。高橋邦弘という巨匠の系譜を引く本格的な蕎麦と、自然に囲まれた特別な空間体験にある。周辺には様々な蕎麦屋が点在するが、これほどの歴史と風情を兼ね備えた場所は稀だろう。
「翁」を訪れるということは、単なる食事を超えた体験となる。それは蕎麦という日本の伝統食に敬意を払い、自然の中で五感全てを通じて味わう贅沢な時間だ。喧騒を離れ、蕎麦の香りと味わいに集中する瞬間は、忙しい日常から解放され、本来の自分と向き合う静かな対話の場ともなる。
店の公式ウェブサイトやInstagramでは、最新の営業情報が更新されている。訪問前にはそれらを確認し、遠方から訪れる価値のある、この唯一無二の蕎麦体験を逃さないようにしたい。
蕎麦愛好家はもちろん、本物の食体験を求める全ての人々にとって、長坂の「翁」は必ず訪れるべき聖地である。静かな森の中、一杯の蕎麦を通して出会う至福の瞬間が、きっと待っている。
文・一順二(にのまえ じゅんじ)

