根津の路地裏、時間が止まったような一軒の甘味処に、古い台湾の記憶が息づいている。「愛玉子」という名を掲げたこの店は、訪れる者を80年以上も前の昭和初期へと誘う。日本にはほとんど知られていない台湾生まれのゼリー状デザート「愛玉子(オーギョーチー)」を看板メニューに据え、時代の流れに抗うように静かな佇まいを保っている。
東京メトロ千代田線・根津駅から歩くこと約10分。上野桜木の路地を進むと、どこか懐かしい黄色い看板が目に飛び込んでくる。入り口を潜れば、そこは昭和の記憶そのもの。年季の入った木製の椅子やテーブル、壁に貼られた色あせた写真や新聞の切り抜きが、訪れる者を遠い過去へと連れていく。
「愛玉子」という不思議な名前の主役は、台湾の山岳地帯に自生するクワ科の植物だ。その種子を水に浸してもみ込むと、不思議と寒天のように固まる性質を持つ。日本の寒天よりも柔らかく、弾力のある独特の食感が特徴だ。レモンシロップをかけた爽やかな味わいは、特に夏の暑さを忘れさせる清涼感がある。
メニューは「愛玉子」を中心に展開され、基本の愛玉子にあんこと黒蜜を加えた「チーあんみつ」、アイスクリームと合わせた「チークリーム」、ワインを注いだ「チーワイン」など、懐かしさと新しさが同居した多彩な品揃えだ。夏には愛玉子にかき氷を乗せた「氷オーギョーチー」も登場する。他にもクリームソーダやコーヒーなどの飲み物も提供している。
この店の起源は昭和9年(1934年)にまで遡る。三代目の祖父が台湾で働いていた友人から愛玉子の存在を教わり、日本で初めて提供したという。当時はまだ日本にはなかった新奇なデザートとして瞬く間に人気を集めた。作家・池波正太郎もこの店の味を愛したと伝えられ、その味は脈々と受け継がれている。
この店の魅力は単に珍しいデザートだけではない。変わることを拒むかのような店の佇まい、時間が凝縮された空気感、そして現代のカフェには求めようもない独特の存在感にある。店内には煙草の匂いが漂い、カウンターに佇む店主の姿は、まるで昭和の一場面を切り取ったかのようだ。
評判は上々だ。「さっぱりとしていて美味しい」「レモンの風味が爽やか」「夏にぴったりの清涼感」と絶賛する声が多く、年季の入った内装も「昭和レトロで味がある」「懐かしさを感じる」と好評だ。
長年にわたって多くの人に愛され続けてきたのは、「愛玉子」の持つ唯一無二の個性があってこそだろう。均質化された現代の甘味処では決して味わえない、時代を超えた経験がそこにはある。
根津周辺には様々な甘味処やカフェが点在するが、「愛玉子」の持つ歴史と専門性は他では決して真似できない。80年以上にわたり、一貫して愛玉子という台湾の伝統デザートを提供し続けるという姿勢は、ある種の頑なさにも見えるが、それが他にはない強みとなっている。
この店の存在は、東京という巨大都市の中に残された小さな時間の懐。流行りに左右されず、派手な宣伝もせず、ただそこに在り続ける。それは現代のSNS映えを追求するカフェ文化とは一線を画す、静かな反逆のようにも感じられる。
店を出て根津の街へ戻ると、あの不思議な食感と風味が記憶に残る。それは単なる味の記憶ではなく、失われつつある昭和の風景と台湾の伝統が交差した、得がたい時間の記憶だ。谷根千の路地裏で出会う台湾の味。それは懐かしさと新しさが同居する、不思議な旅の記憶となるだろう。
文・一順二(にのまえ じゅんじ)

