能登半島の先端に佇む「いかなてて」という店がある。奥能登の方言で「どういたしまして」を意味するこの名前には、訪れる人への優しさが込められている。狼煙町という、かつて火の合図を上げた歴史ある地に位置するこの場所は、単なるカフェではない。ここには食と文化が交差する独自の世界が広がっているのだ。
店に足を踏み入れると、まず香り立つのはスパイスの芳醇な香りと、珠洲市木浦の二三味珈琲による香ばしいコーヒーの匂い。高く吹き抜けた空間には、冬場には心地よい温もりを放つストーブが置かれ、訪れる者を温かく迎える。
ここで提供されるスパイスカレーには、能登の恵みが惜しげもなく注がれている。チキンカレーは鶏もも肉を10時間以上オリーブオイルで煮込んだパキスタン式の無水調理。味付けには珠洲角花家の揚げ浜塩のみを使用し、濃厚でホロホロとした食感を生み出している。インドのゴア地方発祥のポークヴィンダルーは、酢の酸味とスパイスの辛味が絶妙なバランスで調和した一品だ。
バターチキンカレーはバターと牛乳をたっぷり使ったマイルドな味わいで、辛さが苦手な人にも親しみやすい。土日限定のグリーンカレーは、青唐辛子の辛味とココナッツミルクの甘味が特徴だが、ここでは能登の伝統的な魚醤「いしる」を使うという創意工夫が凝らされている。
能登牛のハヤシライスは地元のブランド牛をふんだんに使った贅沢な一品。これらのカレーに添えられる米は、店の目の前の田んぼで収穫された石川県オリジナル品種「ひゃくまん穀」だ。
「いかなてて」の魅力はカレーとコーヒーだけにとどまらない。ここには「LIBRARY RECORDS」というレコード店が併設され、食事を楽しんだ後は音楽に耳を傾けることができる。またギャラリースペースも設けられており、地域のアートや文化に触れる機会も提供されている。
道の駅「狼煙」から道を挟んで向かい側という立地は、能登半島を巡る旅人が立ち寄りやすい場所だ。周辺には狼煙漁港や能登半島最先端の禄剛崎灯台といった観光スポットもある。
店内にはカップルシートやカウンター席、ソファー席、オープンテラス席などが用意され、多様なニーズに応えている。バリアフリー対応もされており、誰もが気軽に訪れることができる配慮がなされているのだ。
この地を襲った能登半島地震の後も営業を続ける「いかなてて」は、地域の復興への意志を示す象徴ともなっている。困難な状況の中でも前を向き、訪れる人々に心地よい時間と空間を提供し続けるその姿勢は、地域住民の心の拠り所となっていることだろう。
「いかなてて」は単なる飲食店を超えた、地域文化の発信拠点だ。能登の方言を冠し、地元の食材を活かしたメニューを提供することで、地域住民には親しみを、訪れる観光客には奥能登ならではの魅力を伝えている。
南アジアに起源を持つスパイスカレーと世界的な飲み物であるコーヒーというグローバルな要素と、地元の食材や方言といったローカルな要素が融合したこの空間は、能登半島の新たな文化を創造している。
暖かな日差しが差し込む店内で、スパイスの香りと共に過ごす時間は、都会の喧騒を忘れさせてくれる。ここでは能登の風土が育んだ食材の美味しさを通して、この地域の文化や人々の温かさに触れることができるのだ。
文・一順二(にのまえ じゅんじ)

