静かな夕暮れ時の小田原。寿町の路地を抜けると、そこには温かな明かりで灯る「まねき屋」がある。一見すると普通の居酒屋かもしれないが、この店には他にはない独特の物語が紡がれている。カウンター6席とテーブル3つという、こじんまりとした空間に漂うのは、40年のキャリアを持つ店主の情熱と、現代のデジタルカルチャーが融合した不思議な空気感だ。
店に足を踏み入れると、まず目に入るのは照明の傘に貼られた千社札のような装飾。伝統的な居酒屋の趣に、店主の個性が絶妙に息づいている。カウンター席には一人客もちらほら。彼らの多くは、実はある秘密を共有しているのかもしれない。それは、この店の主人が、34万人を超える登録者を持つ人気YouTubeチャンネル「無駄なしまかない道場」の運営者だという事実だ。
手書きのメニュー表を眺めていると、その日の鮮魚や季節の食材を活かした料理の数々が並ぶ。特に鶏皮餃子は、幾度となく「ここでしか味わえない逸品」と評される、まねき屋の象徴的な一品だ。パリパリとした外側と、中からじゅわっと溢れる肉汁のハーモニーは、初めて訪れた客にさえ、ここに再び戻ってくる約束をさせるほどの魅力を持つ。
「元祖『小田原チャーハン』、いかがですか?」と店主が差し出すメニューには、地元小田原ならではの蒲鉾と梅を使ったチャーハンが記されている。郷土愛を感じるその一品は、地域の食文化を尊重しながらも、斬新なアイデアを注ぎ込む店主の創造性を表現している。
揚げ出し豆腐は熱々の状態で運ばれてくる。一口食べれば、外はカリッと、中はとろりとした食感に、思わず言葉を失う。ベーホーレンエッグは、ほうれん草とベーコンの卵焼きで、半熟加減が絶妙だ。春巻きのパリパリとした皮の音が心地よく、ガーリックポテトは常連客に「必ず注文すべき」と囁かれる人気メニューである。
魚介類にもこだわりがある。なめろうの鮮度は抜群で、時にはカンパチが使われることも。小田原の名物「まごちゃづけ」も、その味加減の絶妙さで舌を唸らせる。刺身の盛り合わせからは、魚を見る目と扱い方の確かさが伝わってくる。
この店に集う客たちの会話には、しばしば「あの動画」「最新のレシピ」といった言葉が混じり合う。それは彼らが、店主のYouTubeチャンネル「無駄なしまかない道場」の視聴者でもあるという証だ。調理の手元とリズミカルなナレーションだけで構成されるその動画は、家庭でも再現可能な料理の技と知恵を伝授している。顔出しは一切せず、純粋に料理の本質だけを伝えようとする姿勢が、多くの共感を呼んでいるのだろう。
「無駄なし」という言葉には、食材を余すことなく使い切る日本の伝統的な食文化への敬意と、現代に生きる私たちへのメッセージが込められている。それは単なるコスト削減の手段ではなく、食材の命を無駄にしない、職人としての矜持なのだ。
店主の料理への情熱は、「パパっと極旨!おつまみ道場」という料理本の出版にまで発展した。居酒屋の枠を超え、その影響力はデジタルの世界からリアルの世界へと広がっている。YouTubeでの成功が、実店舗への来客を促すという現代ならではの循環が、「まねき屋」という一軒の居酒屋に新たな価値を生み出している。
親しみやすい接客も、この店の魅力の一つだ。レビューには「いなせなyoutuberマスターと優しいママ」という言葉が繰り返し現れる。その言葉からは、店主夫妻の人柄が、料理と同じくらい顧客の心を掴んでいることが伝わってくる。熱心なファンが訪れる一方で、地元の高校生に案内されてきたという客の話もあり、地域に根差した存在でもあることがうかがえる。
小田原には「小田原おでん本店」や「海鮮問屋ふじ丸駅前店」、「地酒・和食 桜木 小田原本店」など、様々な個性を持つ居酒屋が点在する。その中で「まねき屋」は、料理の質の高さとフレンドリーなサービスに加え、店主のYouTube活動という独自の差別化要因によって、他とは一線を画す存在となっている。
1998年の開店以来、「まねき屋」は地域に寄り添いながらも、時代の波に乗ることを恐れない柔軟な姿勢で営業を続けてきた。その歴史は、伝統と革新が共存できることの証明でもある。
店を後にする頃には、カウンターもテーブルも満席になっている。予約なしでは入れないこともしばしば。それは、ここで提供される料理とおもてなしが、訪れた人々の心に確かな余韻を残すからこそだろう。
小田原の夜が更けていく。「まねき屋」の灯りは、今日も多くの人々を温かく迎え入れている。それは単なる飲食の場所ではなく、デジタルとリアルが交差する、現代の居酒屋の新たな在り方を示す光なのかもしれない。
文・一順二(にのまえ じゅんじ)

