東京の喧騒から少し離れた葛飾区。京成立石駅から南口へ一歩踏み出せば、そこには仲見世商店街という懐かしさと新しさが混在する通りが広がる。その中に、時代を超えて愛され続ける「宇ち多」という店がある。昭和21年から続くこの店は、単なる「もつ焼き屋」という枠を超え、一つの文化として立石の地に根付いてきた。
初めて訪れた日のことを忘れられない。平日の午後3時、すでに店の前には数人の人が並んでいた。緊張感漂う列に加わり、周囲の常連らしき客の言動を必死で観察する。「カバンは前に抱えるんだ」「話し声は控えめに」と、暗黙のルールが空気として流れていた。
ようやく店内に入ると、そこは予想を遥かに超える狭さ。長いカウンターに客がびっしりと並び、一人当たりのスペースは肩幅ほど。煮込み鍋と焼き場からは湯気と香ばしい匂いが立ち上り、店内全体に独特の活気を生み出している。
「何にする?」と、店主の短い問いかけに慌てて答える。「シロ、塩で」と注文すると、無言で調理が始まった。隣の常連客がこっそり教えてくれる。「ここは『よく焼き』『普通焼き』『若焼き』って焼き方も指定できるんだ。次はタン生を頼むといい」。その親切さに救われる思いだった。
数分後、目の前に出されたのは艶やかな豚の腸。塩だけのシンプルな味付けなのに、一口噛めば口の中に旨味が広がる。臭みは微塵もなく、肉の甘みと塩の絶妙なバランスに驚く。続いて頼んだ「タン生」は、さらに衝撃的だった。柔らかな食感と濃厚な味わいが、普段食べている豚タンとは全く異なる体験を与えてくれる。
隣の客に勧められた「梅割り」も忘れがたい。焼酎に梅シロップを混ぜたこの飲み物は、甘さと酸味と辛さが絶妙に調和し、もつの脂を流してくれる。「一人三杯までだぞ」と店主に言われるのがもどかしくなるほどの美味しさだ。
そして「もつ煮込み」。一見すると地味な茶色い煮物だが、口に入れた瞬間、舌全体に広がる深い旨味と柔らかい食感に言葉を失う。白いところ、黒いところと部位によって味わいが異なるのも面白い。大根とお新香は、この濃厚な味の間のリセットボタンのような役割を果たしていた。
周囲を見渡すと、老若男女問わず、みな無言で食べることに集中している。会話は最小限、写真撮影も自分の料理だけに限られる。厳格なルールに従いながらも、この独特の空間で過ごす時間は不思議と居心地が良かった。
会計を済ませ、東側の出口へ向かう頃には心地よい満足感に包まれていた。わずか1500円ほどで、これほど記憶に残る食体験ができるのは驚きだ。「宇ち多」は単に腹を満たす場所ではなく、昭和から続く東京の下町文化そのものを体験できる貴重な場所なのだと感じた。
その後も何度か足を運んだが、タイミングが合わず長蛇の列を見て諦めることも少なくない。土曜日の朝は特に人気で、開店直後には売り切れてしまう品も多い。しかし、その入手困難さがさらに「宇ち多」の魅力を高めているようにも思える。
一見すると不親切に感じる厳格なルールも、実は限られた時間と空間で多くの客に美味しい料理を提供するための必然なのだと、通ううちに理解できるようになった。そして、そのルールを受け入れ、従うことで得られる「宇ち多体験」は、東京の他のどこにもない特別なものだ。
「宇ち多」は単なる老舗居酒屋ではない。それは昭和から続く生きた文化遺産であり、現代の東京で失われつつある本物の下町の味と雰囲気を守り続ける場所だ。その独特の世界観に触れるためには、ルールを尊重し、謙虚な気持ちで訪れることが肝要だろう。手頃な価格で提供される極上のもつ料理と、唯一無二の体験が、あなたを待っている。
文・一順二(にのまえ じゅんじ)

