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野辺山宇宙電波観測所

天文台

霧に包まれた八ヶ岳の裾野。雲海の上に突き出た巨大な白いパラボラアンテナが、まるで未知の宇宙からの声を聴くように静かに天を仰いでいる。

初めて野辺山宇宙電波観測所の45m電波望遠鏡を目の当たりにした時、思わず息を呑んだ。標高1350mの高原に君臨するこの白い巨人は、700トンもの質量を持ちながら、ミリ単位の精度で操られる精密機械だ。

「なぜこんな山奥に?」と思うかもしれないが、その立地には確かな理由がある。電波望遠鏡にとって、水蒸気の多い空気は大敵。標高が高く乾燥した野辺山高原は、ミリ波と呼ばれる短い波長の電波観測に理想的な環境だった。さらに周囲の山々が人工電波を遮る天然のシールドとなり、宇宙からの微弱な声を聴き取るには絶好の場所だったのだ。

この地に1982年に完成した45m電波望遠鏡は、その後40年にわたり日本の電波天文学の中心として機能してきた。「宇宙に浮かぶ分子の雲」「銀河の渦巻き構造」「星が生まれる瞬間」—これらは人間の目では決して見ることのできない現象だが、この白い巨人は宇宙の謎に迫る数々の大発見をもたらした。

八ヶ岳

特に印象的なのは、NGC 4258という銀河の中心核に潜む超巨大ブラックホールの発見だ。1992年、野辺山の研究者たちは予期せぬ信号を検出した。それは水分子からの特異なメーザー電波で、超巨大ブラックホールの周りを高速回転するガス円盤からのものだった。この発見は、ブラックホールの存在を疑いようのない形で証明した歴史的瞬間となった。

また、この望遠鏡が発見した星間分子の数々は、宇宙化学の理解を根底から変えた。宇宙空間に漂う有機分子が次々と見つかり、生命の素材となる物質が宇宙に遍在することが明らかになったのだ。

見学コースを歩きながら、この施設の歴史的意義を考えずにはいられない。かつて「世界一の望遠鏡を作ろう!」という気概に満ちた日本の天文学者たちが、この高原に夢を託した。彼らの挑戦は実を結び、この地から世界を驚かせる数々の発見が生まれた。野辺山は、まさに「日本の電波天文学の聖地」と呼ぶにふさわしい。

現在、最先端の観測はチリのアルマ望遠鏡に主役の座を譲ったとはいえ、野辺山45m望遠鏡の活躍は続いている。レガシープロジェクトと呼ばれる大規模観測で天の川銀河の全体像を捉える試みや、AIを活用した分析など、新しい挑戦も始まっている。

観測所は原則として年末年始を除く毎日、無料で一般公開されている。夏休み期間中の特別公開では、普段は入れない望遠鏡内部も見学できる。駐車場も完備され、解説パネルも充実。事前予約すればガイドツアーも利用できるため、天文ファンなら一度は訪れるべき場所だ。

簡易的な食事処しかないので、腹ごしらえは観測所に向かう前に済ませておくことをお勧めする。周辺には南牧村農村文化情報交流館や、JR最高地点の碑などもあり、合わせて巡れば充実した一日となるだろう。

冬の野辺山は厳しい寒さに包まれるが、それもまた格別の体験だ。澄み切った冬空の下、白い巨人がとらえる宇宙の声に思いを馳せながら、凍てつく大地に立つ感覚は忘れられない。

電波望遠鏡は「宇宙の耳」とも呼ばれる。目に見えない宇宙の姿を、電波という形で捉え続けてきた野辺山の巨人。その挑戦者たちの情熱と成果に触れるひとときは、私たちの宇宙観を静かに、そして確実に広げてくれるだろう。

文・一順二(にのまえ じゅんじ)

一順二(にのまえじゅんじ)
猫のロキ
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